世界は氷に包まれていた。
草木や家、人々までもが氷の彫刻となり果て、最早国々すらもまともに機能はしていない。
まるで水面が氷結するかのように、世界は氷で満ちていた。
そんな氷結世界のとある村に、一人の男が目を覚ます。
「ここは……」
男の名はロルド。この農村で農夫として働き、妻と一人息子との三人で暮らしていた。
そんなどこにでもいるような男ではあるが、何の因果か氷の彫刻と化していた状態から抜け出し、こうしてただ一人訳も分からず佇んでいる。
しかしそれも束の間、現状を理解して途端に慌てふためいてしまう。
「な、何だよこれ……む、村が……こんなことって……」
周囲の家や草木はもちろんのこと、ロルド以外の村人全てが氷の彫刻と化していた。
空からは常に雪が降りしきり、周囲を白く染め上げている。だが不思議なことに、雪は一定の高さ以上に積もってはいない。
ロルドはそんな状況に恐怖と混乱した意識の中、自然と足は自宅へと向かっていた。
そうして、氷によって固まったドアを無理やりこじ開けると、そこには二体の彫刻が立っている。
「あぁ、ぁあああああああ!!」
それはロルドの妻であるエルザと、一人息子のエルドだった。
ロルドはその現実を受け入れられず、声を荒げる。しかし、自然と涙は出なかった。
絶望しすぎたのか、それともあまりの状況に現実味を持てなかったのか、それとも、ロルド自身がそこまで薄情だったのかは分からない。
それからしばらくの間ロルドは嘆き苦しむと、その場から逃げるようにして走り出す。
せめて墓でも作ろうかと当初は考えたが、触れて氷の彫刻が崩れてしまうことを恐れた結果、ロルドは何もできず現実から目をそらして逃げ出したのだ。
そしてそのまま村から飛び出し、白銀の世界をロルドは駆ける。ここではないどこか、人のいる場所を探し求めた。
あてなどない。しかし、何故だか進むべき方向は分かった。あの向こうに、人がいるかもしれない。そんな藁にもすがるような気持ちが行動を促す。
「夢だ。全て夢だ。だって俺は畑を耕していただけだ。なのに、こんなことが起こるはずがない! 全て夢だ!」
現実から目をそらすように、ロルドは声を荒げて走り続ける。
そうしていったい自分がどれだけ走り続けたのか分からなくなったころ、それは現れた。
「ひぃ!?」
現れたのは狼の群れだ。それも、氷で作られた狼であり、数は十数匹もいる。
この数に襲われれば、当然ただの農夫であったロルドでは手に負えるはずがない。
しかし、氷の狼はロルドに気が付きはしたものの何故か襲い掛かることはせず、ロルドの知らぬどこかを目指して進み続けていた。
「え? た、助かったのか?」
思わず確認するように声を出しながら、ロルドは呆けた顔で氷の狼を眺めている。
「もしかして、大丈夫なのか?」
寂しさからか最早口癖になった独り言を吐き、ロルドはとあることに気が付く。
それは、氷の狼がこちらを一切襲うことはなく、安全だということ。
見逃されたのではなく、そもそも敵として認識されていなかった。
不思議にも理由は不明だが、ロルドは確信をもってそう言える。
「まあ、氷だしな」
氷で出来ているのならば餌を必要とせず、誰かを襲う必要が無いのだろうと、ロルドはそう納得した。
そうと分かればロルドは孤独よりはましだと、氷の狼の群れについて行く。奇しくも、向かう方向はロルドが向かっていた方向だ。
更に予想通り氷の狼はロルドが真横を歩いても襲うことは無く、氷の背に触れても反応しなかった。
「本当に襲われない。不思議な生き物? だな」
氷の狼の群れに加わったことで、ロルドは一人のときよりも落ち着きを取り戻す。
妻や一人息子のことは今でも気になるが、現状ではまず他の生存者を探す方が先決だと考えた。
それに、もしかした氷の彫刻の状態から助かる方法が見つかるかもしれないという希望もある。
現に自分がこうして助かっている以上、可能性は大いに期待できた。
それからロルドは氷の狼の群れと共に何日も移動すると、あることに嫌でも気が付く。
「俺は、何で疲れない? 眠りもしない? 何故喉の渇きや飢えすらも感じないんだ?」
人であるならば逃れることができないそれらを、ロルドは一切感じなかった。
何日も飲まず食わずに加えて休みなしで歩き続けている。普通であれば、まず不可能だった。
更に付け加えるのであれば、氷結したこの世界で寒さを一切感じない。凍傷になることもなかった。
ロルドはそのことを怪訝と感じると共に、理解不能なことに恐怖すら感じている。
若かった頃ならば、特別な力に目覚めたのだろうと思うかもしれないが、ロルドは今年で二十八であり、そういった理由なき思い込みは出来そうにない。
分からないものには恐怖しか感じなかった。
しかし、だからといってどうすることもできず。今更それを無かったことにされれば死亡するだけと理解しているので、恐怖しつつもそれを受け入れることにした。
そうして氷と雪に覆われた草原や森を超えて、とうとうロルドは発見する。
それは生きた人間。数は六人であり、全員防寒着に身を包み、背中には何か樽のようなものと、それに繋がった筒のような物を手にしている。
「おーい! そこの人たち!」
ロルドはあまりの嬉しさから声を上げた。その声に向こうの者たちも気が付く。だがロルドのことを不審者だと思ったのか、こちらに筒状のものを向けて警戒している。
あれが何だか分からなかったが、武器ではないかと推測はできた。故にロルドは自身に攻撃の意思は無いと声を出そうとしたその時、それは起こる。
「なっ!?」
それまでおとなしかった氷の狼たちが一斉に駆け出し、警戒していた六人に襲い掛かった。
ロルドはそのことに驚愕すると共に死人が出ることを覚悟する。
だがその時、六人の持っていた筒から炎が吹きあがった。それは瞬く間に氷の狼を包み込み、溶かしてしまう。
「す、すごい」
あんな武器は農村に住んでいたロルドには見たことがなかった。
しかし、そうしているのもつかの間、六人は氷の狼を片付けると、次はロルドを敵と見なして向かってくる。
「お、俺は敵じゃない!」
必死に叫ぶが、身の危険を感じてロルドは背を向けて駆けだす。死の恐怖からかいつも以上に速度が出たこともあって、ロルドは何とか逃走に成功する。
「酷い目に合った。だが、人がいた。俺以外にも生きている人間がいる!」
危うく殺されそうになったが、それ以上に自分以外にも生きている人間がいたことに、ロルドは歓喜した。
今回は氷の狼のせいで敵だと判断されたが、次はそうならないように注意すれば大丈夫だと、ロルドは自分に言い聞かせる。
そうして、今度は一人で歩き出す。一応先ほどの人たちとは遭遇しないように、ロルドは大きく迂回した。
その甲斐もあって、道中は非常に穏やかだ。途中氷の狼以外にも、鳥や狐に熊など、多種多様な氷の獣を発見した。
当初は警戒したが、どの氷の獣もロルドを敵とは見なさず、触れても反応を示さない。
だが行動を共にして再び先ほどと同じことになることを恐れ、ロルドは氷の獣から距離をとって一人突き進む。
「あれは……!」
歩き続けてから数日後、遠くの空に煙が上がっていることにロルドは気が付く。それもいくつもだ。
人が住んでいるに違いないと確信を持ったロルドは駆けだす。
今度こそ友好的な関係を結ぼうと決心しながら。
そうして走り続けると、次第に目的の場所が姿を現す。それは巨大な城塞都市であり、見上げるほどの高い壁に覆われている。
ロルドは人が住んでいる気配を強く感じた。
「な、嘘だろ……」
だがしかし、城塞都市の壁付近には氷の獣が蟻の如く群がり、壁の上からは多くの火炎瓶が降り注いでいる。
ロルドは離れた高台からその光景を見て、唖然としていることしかできない。
「氷の獣が、なんで?」
あれほど自分に襲い掛からなかった氷の獣が、人がいるであろう城塞都市を滅ぼす勢いで群がっている。
「まさか、俺だけ襲われないのか?」
道中に出会った六人の人間に襲い掛かったことも考えれば、その可能性は十分にあり得た。
「そりゃ、敵対されるわけだ」
人々にとって氷の獣が危険な存在であるのならば、それに襲われず付き添っている者を味方だと思うはずがない。
そのことを理解すると、ロルドは思わず溜息を吐く。
「俺って、何なんだろうな……」
一人ごちると、ロルドは襲われている城塞都市を見つめ続けた。
城塞都市と氷の獣たちの争いは三日三晩続き、今では僅かに氷の獣がどこからともなく現れるだけだ。
「凄すぎる……城塞都市とはこれほどなのか……」
これまでの人生で農村からほとんど出たことが無かったロルドは、城塞都市の武力に驚愕した。
それと同時に安易に近づけば、簡単に殺されてしまうことも理解する。
このような氷結世界では様々なものが貴重になることは当然であり、よそ者を簡単に受け入れるとは思えなかった。
更にそのよそ者が悪人であれば、ちょっとしたことから最悪が起こりかねない。
住民の少ない農村出身であるロルドは、よそ者の扱いについてある程度理解していた。
「きっかけが必要か」
自分を受け入れてくれるほどのきっかけが必要だと考えたロルドは、一つ作戦を立てる。
といっても、外に出てきた人をどうにか助けるくらいしか思いつかなかったが。
ロルドはそう決めると、城塞都市から人が出てくるのを待ち続けた。
そうして少数の人間が出てくると、距離を取りながら後をつける。
相手の背中には、以前と同様に樽のような物と、それに繋がった筒のような物を手にしていることもあり、ロルドは慎重を心がけた。
「それにしても、あの集団は何のために外へと出ているのだろうか」
食料を手に入れるわけでもなく、木材を収集するわけでもない。
ロルドにはそれが不思議でならなかった。
その後機会が来るのを今か今かと待ち続けていると、以外にも恩を売る機会は直ぐに訪れる。
「――!!!」
「――だっ!」
「――げろ!」
集団は氷の獣に襲われていた。それも数が多く、中には大きな氷の熊も見られる。
謎の筒から炎を噴射して抗っているようだが、あまりにも敵の数が多すぎた。
次第に集団は劣勢になっていき、逃走を開始する。だが当然、逃げるには足止めをする人物が必要だ。
男が一人を蹴とばすと、残りは一人を見捨てて早々に逃げ去ってしまった。
「う、うぁああ!?」
残された男は当然襲われることになり、その命があわや失われると思った瞬間、唐突に現れたロルドによって肩へと背負われると、その場から瞬く間にロルドが退避したことで男は難を逃れる。
ロルドは思ったよりも男の重量を軽く感じたが、気にせずその場から駆けだす。
背後にはこれまでロルドには目もくれなかった氷の獣たちが追いかけてくる。
原因は明らかに肩に背負った男だったが、ここで捨てるわけにもいかないので、ロルドは必死に足を動かした。
幸い氷の獣の数は当初よりも減っており、いくつか先に逃げた者たちを追いかける個体もいたのでそれほど数は多くない。
しかしそれでもロルドにとって脅威には違いなく、焦る気持ちが徐々に生まれてくる。
「は、放せぇ! 死にたくない!」
「暴れるな! 助けてやるからおとなしくしてくれ!」
「誰かいないのか! 助けてくれ! 殺される!」
「くそ、少しは耳を貸す気はないのか!」
肩に背負った男は錯乱しているのか、ロルドの言葉をまるで理解していないかのように喚き続けた。
現状いくら話しても無駄だと思ったロルドは、そのまま喚き続ける男を無視して氷の獣からの逃走を優先する。
「な、なんとか逃げ切れたか……」
予想以上に粘られたが、ロルドの方が足の速さとスタミナの両面で上回っていたこともあり、何とか氷の獣から逃げおおせた。
だがしかし、ロルドはそのことを単に運が良かったからとしか思ってはいない。
「おい、もう安全だぞ」
「ひぃ!! 殺さないでくれ!」
「殺すわけないだろ」
「く、来るな! この化け物!」
「はぁ?」
化け物とまで言われ、流石にロルドも頭にくる。しかし城塞都市に入るためには、それ相応の実績が必要だ。
そう考えたロルドは一旦深呼吸をすると、怒りを鎮める。
だがそれもつかの間、男が驚愕のことを口にした。
「ひ、人の真似をした氷の化け物め! それ以上近づくな!」
「こ、氷の化け物……? 俺が?」
その言葉は、何故か想像以上にロルドの心に強く響いた。
気が付いてはいけない。忘れなければいけない。
心の奥から警告するかように、ロルドの脳裏へと心の声が聞こえてくる。
だが、ロルドは見てしまった。そして気が付いてしまう。
ロルドの両手が、人の形をした氷のそれだということに。
「あ、あ……そんな。嘘だろ。あ、ぁあああああああ!!!」
「ひぃ!!」
ロルドが悲痛の叫びを上げるのにつられ、男は背負っていた樽に繋がった筒をロルドへと向けてきた。
筒から炎が発射されると思われたその瞬間、男の首はあらぬ方向に捻じ曲がる。
やったのは当然、ロルドだった。
「そうか……俺は、もう人間じゃないのか……」
呟く言葉も、自分自身では人の言葉だとロルドは思い込んでいたが、実際には理解不能な化け物の鳴き声に過ぎなかった。
言葉だと思っていたのは、自身の心の声だったことに、ロルドは今更ながら気が付いてしまう。
「Gyaaa……Gugaa……」
一度理解してしまうと、自身の声がロルドには化け物の鳴き声にしか聞こえなかった。
(エルザ、エルド、ごめん。父さん、二人を助けられないかもしれない)
心の中で、ロルドは妻と息子に謝る。
自分が人間ではなく化け物であり、化け物である自分は人間と交流できそうにない。
そのことが、妻と息子を助けられる可能性が絶望的になったと理解したからだ。
人間である自分が活動できるようになったことと、化け物である自分が活動できるようになったことには、天と地の差があった。
(俺はいったいどうすれば……)
氷の両手を見つめながらロルドは悩み苦しむ。しかし、その答えが見つかることは無かった。
それからロルドは、城塞都市の近くで人と関わることなく潜み続け、月日が過ぎ去っていく。
気が付けば、城塞都市の煙が少なくなっていき、都市から抜け出す集団も増えていった。
ロルドはそのことについて、何か燃料のような物が枯渇したのだろうと予想する。
それは概ね正解であり、城塞都市では燃料不足による略奪や暴動が横行していた。
これまで外に出ていた集団は、その燃料が眠っている場所を探していたのである。
結果として、新たな燃料資源が見つからず、城塞都市は衰退していった。
そしてそれから数週間後、大規模な氷の獣の群れによって、とうとう城塞都市は崩壊してしまう。
その光景を、ロルドはただ見つけているだけだった。
長い年月が経つにつれて、ロルドは自我意識が薄れていることに気が付いていたが、それも良いかもしれないと受け入れている。
孤独が何よりも辛かったからだ。目の前に人々がいるのに、そこに加わることができない絶望もあった。
故に、ロルドは家族のことも忘れて、自身が消えることを選んだ。
そうして城塞都市の崩壊後、ロルドは新たに多くの人がいる方向が何故だか分かった。
今となっては城塞都市の場所が分かったのも、氷の獣としての能力なのだろうと理解している。
しかし、自身が人型の氷の獣になったことや、世界が白銀に包まれた原因については一切分からなかった。
だがそれも今やどうでもよく、ロルドは本能に任せて新たな場所へと足を動かす。
おそらく目的地に着く前に自我は無くなっているだろうと、そう理解しながら。
END
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